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次なるはCarlZeissJena Sonnar 1:1,5 f=5cmで。
さて。
今月はじめに、長い間お世話になっている無農薬農業家からこのようなチラシが配布された。胸を打たれた。この方(女性)は妻によると75歳くらいだという。ウチとは25年以上の取引があった。ぜひ拡大画像でご覧になってください。こんな勁い(つよい)ヒトもいるのですね。鼓舞されます。そんなメッセージとして僕は受け止めました。
今朝12月25日に電話があり、合鴨は別業者で今年まではどうにか仕上げることができた。形は悪いが、個数はある、ということだった。ありがたい話だ。
何事にも終わりはあるし、いつかは「店じまい」もある。僕は非力で、ちょっぺ(下手くそ)な男だから、男性であれ女性であれ生産・製作に携わる人間に一種の敬意(リスペクト)に似た感情をもつ。ええなあ、と。
妻も僕もそれぞれの知り合いに、今朝の吉報=鴨を届けることができる。今年までだ。
これまでこのレンズを使うにはもっぱらベローズを使っていましたが、M42-to-M42のロング伸長リング、しかもヘリコイド付きが出回っているこんにちでは、気軽にスナップができます。
こういう技術進化、コマースの進化については、つくづくありがたいと時代を享受しています。モデルのヘクトールですが、これも知人がヘッド部をM42ヘリコイドに接続できるようなチューブを作成して(下部の黒光りする強剛塩ビ=僕の造語)近接撮影ができるようになった。
よく言われるのは、広角のマクロっていいなあ、という話。これは事実です。スナップができてマクロもできる。まあ大体28mm系では30㎝までは普通にできるでしょうが、これが15㎝くらいになるとガラリと変貌する。僕の場合はそれも知人の恩恵でGR28mmやNIKONOSなどで経験をした。
では、ヘクトールで近接となると、いったいどうなるか。
ソファー席で後に引けなかったので体をのけぞらしても、かきチャンポンが入らない。そんなことはわかっていても持ち出して試したくなる。病膏肓に入る、とはこのことだ。平和でいいじゃないか。w
「現代思想」というタームに、
フレンチセオリーというルビがふられる。
「現代思想」一月号の2冊の臨時増刊号では歴史的なフランスのセオリーに、いまどのような反応が出来しているのか、を知らされる。
偶然の特集ではなく編集部の意図がある、と思った次第。
「ポスト現代思想としての日本哲学」(檜垣・北野)のなかに、日本人は日本思想と西洋思想の「2階建て構造」に住んでいる、というくだりがあって、思わず苦笑する。
翻訳語(言語の壁)に関するいつもの雑念が脳裏をよぎる。
ジジェク=『事件』で、鈴木晶は
古池に 蛙が飛び込む ポットン
と芭蕉の句を訳している。
田中美知太郎の括弧内ギリシャ語をみるたびに、ギリシャ語を知らなければ哲学はできない、と引け目とともに過ごした高校生時代。
フーコーは吉本隆明との対談(蓮實重彦もいたが)で、あなたの本が早く翻訳されることを望む、と言っている。
(その吉本は「2階建て」の話題に登場する)
世界中で作品が翻訳されている村上春樹は、翻訳者と会って打ち合わせをやるらしい。(どこまで可能かは不明だが)
1913年に藤田嗣治は渡仏。自分で機織りした「雑衣」を平気に着て、モンパルナスで評判となっていた。いち早く仏語を覚え、語り、溶け込み、フランス世俗をものにする。
「美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている」『批評と臨床』
云々かんぬん・・。
コトバは言語学の構造的な諸問題とは別にその場所にリアリティが立つかどうかが肝だろう。
リアリティが湧き立てば、ポットンでいいし、ポットンでなければならない、とさえいいうる。
日本人が日本語で世界に語る、そんな文化空間が到来するとは考えにくいが。
(α7R,Durst Componon105mm5.6)